未亡人 おさじが楽しく語ります

苦しい死別を経験した、いまは明るい未亡人のはなしです

長ーい目でみてください

 

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小松政夫「長ーい目で見てください」この画だけで笑える。


新型コロナの新規感染者が増えに増え、穏やかでない日々が続いています。これは全くいつまで続くのでしょうか・・・ とはいえ、お籠り生活にすっかり慣れて、外出は最小限にとどめ、ネットで買い物も楽しいし、アマプラで映画も堪能し・・・慣れるとこれもラクチンです。もともと出不精の私には、この環境は悪くないです。

外出自粛ムードが漂い始めた頃は、我慢を強いられているようで辛かったですけどね。やはり、人間の順応は素晴らしいな、と。

いま、歴史に残る世界規模の混乱の最中にいるわけですが、これが終息して落ち着きを取り戻した暁には「あのとき、大変だったよね」なんて思い出話になるわけですよね。

次世代の子どもたちの歴史の教科書にものるんでしょうね。

新型コロナウィルス流行やら感染防止対策の三密が赤太字になって、学力テストに出題されたりするんでしょうか。

 

今回のコロナの混乱でも言えますが、何か辛いことが起こった時には、あえてその苦しみ一点を見ずに、その事象全体を視野を広く客観的に、俯瞰してとらえられると、また違った世界が広がると思います。

上の画像の小松政夫さんの往年のギャグ「長ーい目でみてください」てのも、いいですね(笑)

ギャグの意味とはかけ離れてしまうかもしれませんが、キツイ現実を楽観的に捉える助けになってくれる知恵です。

その苦しみの最中にいるときにはなかなか難しいのでしょうが・・・

 

私の死別で例えれば

「相方が仕事の事故で亡くなった、もう二度と会えない、触れることもできない、悲しい、苦しい・・・」という思いに翻弄されます。

これを私は次のようにに変換して凌いでいました。

「若くして死別することはそこそこ珍しいことではあるけれど、これだけの人間がいれば、同じ境遇の人だって一定数いるよね。自分の人生が80年だとすると、この死別の苦しさに翻弄されているのって、多分一時的なものだよね。人生なんて、ご褒美のいいこと半分、成長に必要な辛いこと半分ずつ。今は丁度辛いことの時だな・・・仕方ない。」

と解釈していました。

これでだいぶ楽になったんです。起こってしまったことは仕方ないですからね。受け入れるしかないし、受け入れてからが次へのスタートですよ。

 

そして、あっけなく人生を終えてしまった相方の死については、後にいろいろな文献や思想を拝借し、たどり着いたのが

寿命は宿命である

ということでした。

運命ではないんです。運命ならば自分の行いで回避も可能でしょうが、宿命ですから、予め宿してきた決定事項だそうです。

決まってたんなら仕方ないね・・・これに尽きます。

不慮の事故などで若くして突然亡くなると、ついこちら側で色々と意味づけをしがちです。何でこんな不幸な死に方をしたのか、何がいけなかったのか、何かの祟りだったのかとか。しょうもないことを考えます。

ですが、初めから決まっていたことだったとしたら、あとからガタガタ言っても仕方ないし無駄なことですものね。

尚、この考えに至ったのには、思想を拝借しただけではない理由があります。

相方は亡くなる直前に生前の整理をしていったり、名残惜しそうにお別れのしるしを残していったからなのです。

よく、余命幾何もない方が部屋を片付けて亡くなったと聞きますが、まさにそれでした。彼の場合は病気で自分の余命を知らされていたわけでもありません。あの日あの時、自分がこんなカタチで人生を終えるとは思ってもみなかったと思います。

ですが、確実に、もうすぐやってくるお別れの準備をしていました。

そう考えると、やはり相方の死は決まっていたことだったと考えるほうが自然で腑に落ちるんです。

そして、そういう相手と一緒になって、死別の辛さから成長するのも、これまた私のたどる道であったと思っています。

 

もう一つ、そんな相方の死を実際に経験して感じたのは、人の人生って、ひとつの果実が成熟していく様と同じだな、ということでした。木が実をつけて熟れていく様は、人間の誕生、成長、死と同じ姿であり、またこの世のすべての生命の活動は、姿が違えどみんな根本は同じことなんだろうなということです。

例えば、果実をつける木を生きる世界として、果実を一つの命だとします。

熟しきってポトリと木から落ちた果実は、人間でいうと高齢になって人生を終えた姿に見えます。相方のようにアクシデントで亡くなったような場合は、台風被害なんかで止む無く落ちたり、鳥につままれたりして熟しきる前に落ちた実の姿に例えられるなぁと感じたわけです。

誰かが言っていた言葉かもしれません。

いろんな理由や条件で、死ぬときは死ぬ。

総じて「生まれて死ぬ」それだけの事なのですが、人間は頭脳が発達しているが故、感情がつきまとい、事象に意味をつけてしまいがちなのでしょうか。

 

死別の苦しみから解放された現在思うことは、この経験からこの死生観を養えただけでも十分、いい学びだったし有難いことだったんだな、ということです。この死生観こそが、我が強さの源だと断言できます。

 

尚、この辺の思想や解釈は、あくまでも私個人のものです。私はこれで幾分楽になりましたよ、という話を綴りました。他の思想や多々ある宗教を、私は否定も、肯定も一切いたしませんので、何卒ご了承ください。読んで不快になられた方には恐れ入りますね。m(__)m